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「マルメロの陽光」 [映画]



先日二作通しで観たビクトル・エリセ監督の長編三作目。
公開当時、現代美術論だったかの教授が「おもしろい。ものすごくおもしろい。ぶっつづけで何回も観た(その当時は会場入れ替え制じゃなかったんね)」と熱烈に薦めるもので観に行ったんだった。今となってはDVDの価格の高騰ぶりに吃驚です。
で、その公開時に観たっきりで再鑑賞の機会ももてないまま。今一番観たい映画だけど、レンタルもないし、このお値段はねえ。

お話は、起伏がはっきりした所謂お話って感じではなく、画家アントニオ・ロペス=ガルシアがマルメロの樹木をモチーフに絵を描く姿を淡々と描写するもの。ドキュメンタリーみたいな。
ていうか、フィクションとドキュメンタリーのカテゴライズが意味をなくしちゃう感じ。

「ミツバチのささやき」「エル・スール」の鑑賞を経て「マルメロ…」を思い出してみると、みること、みつめること、その眼差しっていうことを思う。
少女アナの眼差し、父をみつめる娘、そして、マルメロの木をみつめる画家の姿。

動詞「みる」には、見る、観る、視る、診る、看る、など複数の漢字があてはまり、そのそれぞれに意味合いが違っていて、それだけみるっていう行為に多くの意味を見出せる。
わたしは漢字の使い分けにけっこう意識的なほうだけれど、この映画の場合はどの漢字をつかっていいのかわからない。

一般的でオールラウンドな“見る”でもいいし、美的対象として鑑賞する“観る”でもあるし、モチーフを凝視して捉えようとする“視る”が相応しい気もするけれど、樹木の世話をする“看る”だったりもする。
画家の視線はそれらの見、観、視、看だけではなくって、愛でる、慈しむ、楽しむ、興じる、陶酔する、耽る、といくつもの動詞があてはまりそうにも思える。
かといって、それらの行為に浸りきるということでもなく、一歩下がって冷静に省みる、退いてみる、モチーフや制作途中の絵画や製作する自分に対する批評性を失わないように常にセーブするストイックさも感じる。
写実的な画風の、写実ってことは、自分がみているもの、みていること、どのようにみているのかを常に問いつづけることであろうと思う。

で、アントニオ・ロペス=ガルシアは非常に寡作で、一作を完成させるのに20年もかかるものがあるそうな。そりゃそうだなー、と思う。

画家は、えんえんと木に向かい続ける。
木の実は日に日に太り、重みをまして枝から下がってゆく。
以前に比べてどのくらい下がったか、実に印をつける。
前日までに描いたマルメロは、次の日には姿を変えるので、描き直す。
そのやり方は滑稽なほどどんくさくて、愚直にも思えるくらい。

そして、絵は完成しない。完成は目的ではない。
完成するってことは、もうみることを尽くしきって終わる、ってことになる。
みるべきことがなくなる、それはもう画家ではなくなることを指すだろうから。







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履歴書の書き方

とても魅力的な記事でした。
また遊びに来ます!!
by 履歴書の書き方 (2014-08-27 09:12) 

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