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ゼロ年代的映画、みたいなもの [映画]

そんなに多く映画を観ているほうでもないし詳しくもないが、個人的に病気したり仕事を辞めたり結婚したりといろいろあった年代でもあることもあって、2000~2009年ていう新世紀初頭の感触を、映画を切り口に観想してみようかと。

“世界の他者性”って言葉をどっかで聞いた覚えがあって、個人的には、それがゼロ年代を表す言辞として非常に強く印象付けられてる。

他者っていうのは自分じゃないものだから、自分と違っていて、よくわからない。
よくわかんない上に、自分の意思や力が及ばない、制御できない。
違うってことに理由もない。なんだかすごく異なもの。
っていうことなのかな。

ひところ席巻した実存な“自分探し”、それは確固とした自分の居場所が存在する世界が前提である“世界探し”と同義であったのだろうけど、そんな世界はない、ということがはっきりしたんだと思う。

わからなさ、理由のなさ、他者性ってことの容赦なさが、厳格に圧倒的に徹底的に迫ってくる。
ていうことが、ゼロ年代なのかな、と思うわけです。


そういう意味では「崖の上のポニョ」「宇宙戦争」がぶっちぎりな印象。
「エレファント」「世界」もそうかな。


トゥモロー・ワールド
子どもが生まれなくなった世界の、陰鬱な黄昏感がリアルにクる。肺が詰まる感じ。陰鬱さがものすごく日常を伴ってる感が堪える。世界は終わらないってこと。従って、苦悩も終わらないってこと。灰色に垂れ込めて鬱々と重苦しい日常は続く。
堪えるんだけど、妙に落ち着く。抗欝薬と自殺薬が政府から支給されるっていう設定に惹かれる(いいな。薬欲しい。)のはひょっとしてヤヴァいのか自分。
どうして子どもが生まれなくなったのかはわからないし、従って、どうして生まれるのかもわからない。
どうしてこんな世の中なのかもわからないし、これからどうなるかもわからない。
わからないけど、子どもは生まれた。そういうお話。
あと、音楽イイですね、これ。


「殺人の追憶」
わからなさってことの苦痛が、ぐっつぐつに煮込まれてる感じの。
つか、趣味嗜好の問題なんだけど、わたしはどうも韓国映画の濃ゆさ、泥臭さがどうにも苦手であるらしい。
とはいえ、無駄な濃ゆさではない。
韓国、北朝鮮も、日本にとっての他者として存在感を増してきたのかも。


で、「トゥルーマン・ショー」「ファイト・クラブ」「アメリカン・ビューティー」「ヴァージン・スーサイズ」なんかはその直前の気配、世界への懐疑ってことなのかなあ、と。


「グラン・トリノ」はむしろ20世紀的な気がしますた。さよなら20世紀。的な。
ていうか「シロタさんこれ嫌いでしょう?」って言われました(笑)。どうやらマッチョなヒロイズムにムカつくだろうと思われたらしい。
別に嫌いではないです。こういう頑固な年寄り、好きだけどね。シロタの本棚には山本夏彦とか養老猛司とか永六輔とか年寄りの説教棚があるのです。うるさい年寄りだなー、と思いつつ読んでる(笑)。


んで、’10年代〜は、如何に他者と向き合うか、っていうことになってくるんでしょうか。
他者が他者であるからといって、自分の理解や制御のうちに暴力的に組み入れたり、排斥したりされたりしないで済むような仕組みが、よりいっそう必要になってくるってことなのかな、と。

そして、その幕開けが「第9地区」だったりすんのかしら。なんちて。

’10.5.11追記:
「しねばいいのに」「第9地区」の主題歌だと思った(笑。って、笑っていいものか躊躇うが)。

どこか遠くの 僕の知らない場所(ところ)で /いつのまにやら 僕の知らないあいだに
(中略)/しねばいいのに しねばいいのに あの虹の向こうで しねばいいのに

自分に関わらないところで知らないうちに滅んで欲しい、っていうのは、他者に対する態度としてものすごく正直なとこがあらわれてる。
あと、やたらに何でもかんでも擬人化・キャラ化される傾向というのも、他者の他者性を自分の理解の範囲に取り込もうとする態度なのかな、とか。

けど、上述のような態度は克服されねばならないとは思うが。しねばいいのにと思うような相手を殺さないでいられるように、よくわからない相手をよくわからないままに認められるように。







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