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他者、他者性について [雑事、雑文]

ゼロ年代的映画なるものを考えてみた先日来、「他者」とか「他者性」ってことが気になっていて、で、エマニュエル・レヴィナスという人が他者についてものすごおーーーく考えた人であるらしい。
いきなり著書を読むのはハードル高いんで、とりあえず「レヴィナス—法-外な思想」(港道 隆/講談社)「レヴィナス入門」(熊野 純彦/ちくま新書)ていう解説書を読んでみた。

読んでみたけど、わかったようなわからんような。読んでる間はうんうんなるほど、って思うんだけど、本を閉じるとわかんなくなる。レヴィナスや執筆者の言葉として意味は解するのだけど、自分の言葉に消化できない感じ。
フッサールとかハイデガーちゅう人の思想もわかっとかないと厳しいっぽい。デリダとかメルロ=ポンティも押さえとくとなお可。なのかな。


「レヴィナス—法-外な思想」の表紙の後ろ側に記載の紹介文がかっちょいいので引用してみます。

法-外な思想(panśee extra-ordinaire)

他者とは誰か。他者は<私>を傷付け、苦しめ、迫害し、殺しうる。そうした他者に<私>は責任を負いうるのか。その暴力のさなかでさえ「汝殺すなかれ」と<私>に呼びかける他者の顔が、<私>の存在の暴力性を暴き、<私>を存在の安寧から逐い出し、責任へと目醒めさせる。
<私>は他者の暴力に傷つくだけでなく、暴力に苦しむ他者の苦痛をも苦しむ。<私>は他者の「身代わり」として在る。他者の顔が開く<私>の他者への無限の責任こそが、正当防衛の名のもとに悪循環に陥る戦争を抑止する。<私>は一人で存在の不条理と無意味に耐え、世界の重みを支える。この非対称の関係を言いあてる「法-外な」倫理学こそ、常識を覆すレヴィナスの思想である。


他者について思ったこと、今の段階で自分の言葉として語りうることとして、メモ。

他者、ってことをとりあえず“わたしじゃないもの”、って言い換えてみる。“わたしじゃないもの”は“わたし”と区切りをつけるのが意外と難しい。
例えば米は“わたしじゃないもの”だけど食ったら“わたし”になる。その際、米はいつどういう段階で“わたしじゃないもの”から“わたし”になるんだろう。
毛髪は“わたし”だけど、抜けたり切ったりしたら“わたしじゃないもの”になる(でも、“わたしだったもの”だから、なんとなく気持ち悪い)。

他人は“わたしじゃない”んだけど、“わたしにとっての○○”になってくれる場合がある。
例えば、“わたしの”友人、恋人や配偶者や親子きょうだい、もしくは敵とか味方とか、赤の他人とかになってもらえる。正確には“わたし”の都合で勝手に所属配置されてもらう。
誰かを理解するとか認識するっていうのは、“わたしにとっての何者か”になってもらうこと。で、端的に暴力なんだろう、こういうのも。
(つまり、理解する/理解しようとすることは暴力だってことになるのかな。うーむ。)

んで、“わたしじゃないもの”の他者性とは、米みたいに“わたし”になったりせず、友人や家族など“わたしにとっての○○”になったりもしない、ということ。
わたし”の理解/認識する世界の外に居るもの。徹底的にわからないもの(わかっちゃったらそれは“わたしにとっての○○”)。

意識と無意識の関係にも似てるかも。
無意識は意識できないから無意識なのであって、無意識の領域を意識できたとしたらそれは単に意識である。ていう。
無意識は“わたしじゃない”。

わたしじゃないもの”のことは、以前「大奥」追記でちょこっと書いてみたこともある。
わたしじゃないもの”を識別して排除しようとする免疫機能と、“わたしじゃないもの”を孕んで育成する生殖機能が矛盾する女性の身体の葛藤について。

トゥモロー・ワールドの赤ん坊は“わたしじゃない”他者の現前。この赤ん坊って最後の最後まで名づけられなかったと思うんだけど、名付けとは相手を“わたしにとっての○○”にする行為。
赤ん坊を欲しがる人物が出てくる。
世界が“わたし”だけだと孤独だから、“わたしじゃないもの”へと欲望が向かう。“わたしじゃないもの”を“わたしにとっての○○”にしたがる。
けれども、“わたしじゃないもの”を暴力によって“わたしにとっての○○”にしてしまうと、世界は結局“わたし”だけになってしまう。そこに生じるジレンマ

「宇宙戦争」「エレファント」「殺人の追憶」の、他者からもたらされる暴力、その徹底したわからなさ、“わたしじゃな”さ、他者性。
エヴァンゲリオンの使徒も他者の現前。

「崖の上のポニョ」の凄さは他者を歓迎すること。
リサは「 不思議なことがいっぱい起きてるけど今は何故なのか分からない。でもそのうち分かるでしょ」て言う。
不思議なこと、わからないこと、しかもハンパじゃないレベルで起こっている状況をそのままに受け容れ、応える態度。

ゼロ年代に、わたしたちは否応なく容赦ない他者/他者性に出会った。
そして’10年代以降、如何に他者に向かい合っていくか、支配せずされず、排斥せずされずに居られるか、ってことなのかな、と。


なんか考えながら書いてるので同語反復とか飛躍し過ぎとかあれこれあると思うけど、とりあえずこれが限界。








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