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「俺俺」星野智幸 [書籍]

タイトルがセンスいい。“オレオレ詐欺”と“我々”ていう語を想起させられる。

主人公の「俺」はちょっとしたきっかけで他人になりすます。
ところが、なりすまして偽ったはずの他人が、実は「俺」本人であって、え、じゃあその前「俺」だと思ってた俺はいったい誰なんだ? と、実家に帰ってみると、そこにはなんともうひとりの「俺」が居る。お前は俺だよな、俺も俺だ、って俺同士の珍妙な会話。
自分が自分であることがあやふやになってゆく様に巻き込まれるように読まされる。

「自分が自分であること」なんて当たり前だと思っててろくに考えやしないけど、考えてみると不思議だ。何故に俺は俺であってあなたではないのか。てなことに思い至らされ、うっかり考えてしまう読者もまた one of「俺俺」。
個々人の記憶もとっちらかって曖昧に、自我が融解してしまう様が、読み手にも及ぶ。てか、その巻き込まれ感がキモなのかも。
自我の融解、とかいうとエヴァンゲリオンの人類補完計画みたいな感じも思い浮かんだりして。


「俺」に出会った「俺」は、最初は、互いの理解が容易であることに安堵と開放感を覚えるのだけど、徐々に「俺」に閉塞してゆく。どこに行っても「俺」に出会う。
愉快でいい奴の「俺」だけではなく、認めたくない、受け容れられない卑劣で小心で醜い「俺」にも否応なく出会い、認めがたくても「俺」であることは明白に否応なく認めざるを得ない。
「俺」を保つのが困難になり、だからといって「俺」を降りるわけにもいかず、降りるとしたら死ぬか「俺」以外を殺すか。
互いに見張りあい、わずかな差異に敏感になり、少しでも隙があれば削除される。

そういう「俺俺」状態のキモさヤバさ怖さは中盤の高尾行きの列車の中の描写に極まる。
車両全部、ぎっしり「俺」が乗ってる。「俺」だらけ。耐え切れなくなりそうなヘンな緊張の高まりの中、「俺」じゃない者、他者が乗車してくる。
このときの、「俺」らのその緊張が、異様で過剰な関心となって他者に集中し、それが攻撃に転じ、他者を殺す、そのさま。

このさまが、今現代の日本の社会の様相を呈しているようで超キモい。心底キモい。
空気を読み、皆に合わせて同じように振舞うべきとされていて、けれども個人の内面を圧殺して“皆”に合わせることは大変な苦痛である。苦痛なら合わせなきゃいいのに、それを止めると徹底的に攻撃される。
皆=俺なので、皆に合わせないということは俺を否定することを意味する。皆=俺という自己同一性を保てなくなる恐怖が攻撃に転じるので、それはもう過激で過剰で執拗な攻撃になる。でもって、俺が苦痛に耐えているというのに、それに耐えない&耐えられないとはけしからん、許せん、みたいな逆恨み嫉み僻み。
また、攻撃は、わかりやすい差異を有する他者、例えば朝鮮学校などに向かう。在日コリアンはその出自を変えることなんかできないのに、その在日コリアンであること自体を攻撃する。その差異が決定的で明白であるからこそ、安心して心置きなく叩きまくる。俺じゃないやつを叩くことで俺を補強する、脆弱な自我。
誰にでもそういう心性はあるものだろうけれど、それを許さないのがモラルとか倫理道徳、もっと言えば正義ってことなんじゃないんですかね。
俺が俺だけの俺しか居ない俺であることはとても孤独なことだけれど、その孤独に耐えなければ「俺俺」の閉塞に陥ることであるよ。

後半、「俺俺」はその絶対的な孤独を経て、かけがえのない「俺」とかけがえのない他者に至る。
読んでる間は後半のこのくだりは駆け足っぽいつか、付け足しっぽい気もしてしまって、「俺俺」が閉塞して自滅する悲惨な末路、で締めちゃえばいいのに、とか思ったりもしたんだけど、読了後、ううむでもこの終盤の絶対的「俺」の孤独の描写はとても誠実だなあ、と思った。

そして、かけがえのない他者に出会うことのかけがえのなさ。正しさ。
ここんとこにグッとコれるとよかったんだろうけど、結論が性急過ぎる感もあり、どうにも現状のきなくさい「俺俺」社会の気持ち悪さに希望など見出し得ずにいる心象が影響してか、あんましコなかったのでした。残念。







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